出版日 2026年2月16日
紹介文
技術は、どこまで人間を置き換えられるのか。
人工関節、義肢、再生医療、そしてAI。
かつて不可侵と考えられていた身体や思考の領域は、静かに、しかし確実に「外注」され始めている。歩くことも、見ることも、計算することも、記憶することも、今や機械や装置に委ねることができる時代だ。では、その延長線上で、私たちはどこまで自分を置き換えられるのだろうか。
本書『交換可能な身体と交換できない私 ― 技術が進んだ先で残る人間の条件』は、AIとの対話という現代的体験から出発し、思考の外部化、身体機能の代替、感覚器の装備化、そして脳の特異性へと議論を展開する。技術の進歩は、身体を「運命」から「選択」へと変えつつある。より強い足、より鮮明な眼、より長く働く臓器。それらはやがて性能や価格で比較される商品になるだろう。しかし、身体がどれほど交換可能になっても、なお失われないものがある。それが「私」という感覚である。
本書は、再生医療の進展や、身体機能の大部分を機械に委ねた実在の事例を手がかりに、脳だけはなぜ別物として残るのかを検討する。脳は確かに中心である。しかし脳だけでは人間は成立しない。経験の連続性、世界との関係、意味を引き受ける主体性——それらが重なり合うところに「私」は立ち上がる。技術は機能を代替できても、意味を代替することはできない。
さらに本書は、身体が自由になった未来において、人間の欲望がどこへ向かうのかにも目を向ける。できることが当たり前になったとき、人は何を求めるのか。選ばれること、関係を築くこと、意味を持つこと — 技術が進むほど、かえって人間の根源的な問いが浮き彫りになる。
本書は技術礼賛でも悲観でもない。冷静に境界線を探りながら、「人間とは何か」という問いを閉じずに保つ一冊である。身体を更新できる時代にあって、何が最後まで交換できないのか。その問いを引き受ける読者にこそ、本書は開かれている。
目次
序章 AIとの対話から始まった問い
0.1 思考を外部に置くという経験
0.2 AIは「考えている」のか、それとも装置か
0.3 自分の思考の一部を外に持つという感覚
0.4 この問いが、なぜ身体の問題へ向かうのか
第1章 人間はすでに「外注」してきた
1.1 道具・文字・計算 ― 思考と機能の外部化の歴史
1.2 体力・感覚・記憶はどこまで外に出せるのか
1.3 外注できるもの、できないもの
1.4 外注が人間性を奪わなかった理由
第2章 身体はどこから代替可能になるのか
2.1 運動機能はなぜ最初に置き換えられるのか
2.2 人工関節・義肢が示した「単純な機能」
2.3 内臓はなぜ難しいが、理論的には可能なのか
2.4 身体が「構造物」になるという感覚
第3章 感覚器は装備になり、世界は残る
3.1 眼と耳は、すでにカメラとマイクである
3.2 感覚器と感覚野の決定的な違い
3.3 見ているのは目か、脳か
3.4 「感じる」という体験はどこで生まれるのか
第4章 代替された身体は、モノになる
4.1 交換可能になった瞬間、価値は変わる
4.2 ベンツの足、ツァイスの目という世界
4.3 性能・価格・ブランドで語られる身体
4.4 身体が商品になる社会で起きること
第5章 生体の更新と「私」の連続性
5.1 iPS細胞が変えた生命観
5.2 生体の再生成は、なぜ機械とは違うのか
5.3 すべてを換えても「私」と言える理由
5.4 経験の連続性という唯一の条件
第6章 なぜ脳だけは別物なのか
6.1 ソフトとハードが分離できない臓器
6.2 記憶・人格・履歴が焼き付いた物質
6.3 脳だけでは生きられないという現実
6.4 脳を生かすために最低限必要なもの
第7章 極限としての「脳だけの存在」
7.1 身体をほぼすべて機械に委ねた一人の科学者
7.2 成功と限界が同時に示されたという事実
7.3 精神的葛藤はどこにあったのか
7.4 自分なら耐えられるのか、という問い
第8章 身体が自由になった世界で、人は何を欲するか
8.1 若返ったと感じる身体
8.2 できることが当たり前になった社会
8.3 人はできないことを過大評価する
8.4 欲望はどこへ向かうのか
第9章 交換可能な身体と、交換できない中心
9.1 身体をすべて換えても残るもの
9.2 脳は「中心」だが「すべて」ではない
9.3 意識はどこに宿っているのか
9.4 なぜこの問いは消えないのか
終章 人は何を持って「人であり続ける」のか
10.1 技術が進んでも変わらない条件
10.2 人間はどこまで装備化されるのか
10.3 それでも残る「私」という感覚
10.4 思考を続けるための問いとして
あとがき